10才で本格的にテニスを始め、高校2年のときにテニスの名門である福岡県の柳川高校に編入。
同年高校総体単・複・団体で三冠を達成。その後、世界的に有名なボブ・ブレット氏と運命的な出会いがあり柳川高校を中退、単身フロリダ州タンパにあるハリーホップマン・テニス・キャンプに参加。86年、地元にあるパーマーアカデミーを卒業後プロに転向。88年4月、ジャパンオープン準々決勝でジョン・マッケンローとの対戦に敗れたものの、世界に通用する日本人プレーヤーの出現を印象づけた。同年初めて世界ランキングトップ100の壁を破り、世界のトッププロの仲間入りを果たす。
89年にヒザを痛め2度にわたり手術、厳しいリハビリの末にツアーに復帰を果たすが、90年のセイコースーパーテニスでは足首の靭帯を損傷。しかし再びカムバックを果たした91年には、その前年に全米オープンで初のグランドスラムタイトルを獲得したサンプラスを破り、92年4月、KALカップで日本人男子選手として初めてATPツアー優勝。同年6月にはステラアルトア・グラスコート選手権で準優勝。世界ランクも自己最高の46位にまで上げた。しかし、同年末にウィルス性の病気にかかり、3ヶ月の療養をよぎなくされる。93年3月に復帰後、5大会でベスト8入りを果たしたが、世界ランキングは100位以下に終わる。94年も100位の壁を突破できず苦しい戦いは続いた。
翌95年のウィンブルドンでは準々決勝でサンプラスとの対戦に敗れはしたものの、日本人男子として62年ぶりにベスト8進出の快挙を成し遂げた。96年のウィンブルドンでは2回戦のミヒャエル・シュティッヒ戦で長年の夢であったセンターコートでの試合がついに実現した。
同年高校総体単・複・団体で三冠を達成。その後、世界的に有名なボブ・ブレット氏と運命的な出会いがあり柳川高校を中退、単身フロリダ州タンパにあるハリーホップマン・テニス・キャンプに参加。86年、地元にあるパーマーアカデミーを卒業後プロに転向。88年4月、ジャパンオープン準々決勝でジョン・マッケンローとの対戦に敗れたものの、世界に通用する日本人プレーヤーの出現を印象づけた。同年初めて世界ランキングトップ100の壁を破り、世界のトッププロの仲間入りを果たす。
89年にヒザを痛め2度にわたり手術、厳しいリハビリの末にツアーに復帰を果たすが、90年のセイコースーパーテニスでは足首の靭帯を損傷。しかし再びカムバックを果たした91年には、その前年に全米オープンで初のグランドスラムタイトルを獲得したサンプラスを破り、92年4月、KALカップで日本人男子選手として初めてATPツアー優勝。同年6月にはステラアルトア・グラスコート選手権で準優勝。世界ランクも自己最高の46位にまで上げた。しかし、同年末にウィルス性の病気にかかり、3ヶ月の療養をよぎなくされる。93年3月に復帰後、5大会でベスト8入りを果たしたが、世界ランキングは100位以下に終わる。94年も100位の壁を突破できず苦しい戦いは続いた。
翌95年のウィンブルドンでは準々決勝でサンプラスとの対戦に敗れはしたものの、日本人男子として62年ぶりにベスト8進出の快挙を成し遂げた。96年のウィンブルドンでは2回戦のミヒャエル・シュティッヒ戦で長年の夢であったセンターコートでの試合がついに実現した。